名古屋市緑区今昔物語(その1)
緑区は名古屋市の南東部に位置しており、区の人口は市内16区の中で最多の24.75万人です。
緑区には東西に扇川(おおぎがわ)、南部には大高川(おおだかがわ)が流れ、平地と緩やかな丘陵地で形成され、「緑」の名の通り自然環境に恵まれています。
名古屋市への編入は1963年(昭和38年)で、名古屋16区の中では比較的新しい区のひとつです。
市制では新しい緑区ですが、実は人が住んだ歴史はかなり古く、石器時代から人が住んだ形跡があり、緑区西部の鳴海(なるみ)と南部の大高(おおだか)から小型の石器が出土しています。
縄文時代には鳴海や大高は海に面しており、海岸近くに人が定住していたことが多数の貝塚や遺跡の発掘調査でわかっています。
古墳時代には大高の斎山古墳(いつきやまこふん)、鳴海の大塚古墳や赤塚古墳など多数の豪族の墳墓が築造されています。
また、緑区東部の丘陵地(小坂、徳重、乗鞍から亀が洞の一帯)では古窯跡が発見されており、これらの丘陵地の粘土や松の木を採取して須恵器が焼かれ、扇川の水運を使って都に送られていたようです。
「古事記」「日本書紀」に記された古代には景行天皇が三河(愛知県の東部)から東の国を従わせるために征伐に向わせた皇子、倭建命・日本武尊(やまとたけるのみこと)の足跡が残っています。
この東征の途中で日本武尊は大高の氷上山(ひかみやま)で尾張国を治める豪族の伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)・建稲種命(たけいなだねのみこと)の館に立ち寄り宮簀媛命(みやすひめのみこと)を見初めました。海路で東国へ赴き大役を果たして無事に尾張国氷上館(大高)に凱旋し、乎止与命のむすめ宮簀媛命と夫婦となり、氷上館に滞留したと伝えられています。宮簀媛命の没後その館跡には熱田神宮の境外摂社
氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)が創建されました。
また、鳴海には天智天皇の時代に日本武尊が東征(とうせい)に舟で出帆し陸路で凱旋した縁起で、当時の鳴海の海岸(鳴海潟)を見下ろす天神山に成海神社(なるみじんじゃ)が創建されました。室町時代に足利氏の武将が天神山に鳴海城・根古屋城(ねごやじょう)
を築城するため、成海神社は600m北東にある乙子山(おとごやま)に奉遷(移転)されています。
仏教が伝来した飛鳥時代には寺院が各地で建立され、詳細な文献は残っていませんが、発掘により緑区の大高と鳴海には寺(大高廃寺、鳴海廃寺)があったことがわかっています。
大化改新(646年)によって日本中に国郡里制が布かれ、愛知県の西部は「尾張国」と名付けられました。尾張国は愛知・山田・ 春部・丹羽・葉栗・中島・海部・知多の8郡から成り、鳴海、大高、有松は愛知郡成海郷(なるみごう)になりました。
「平家物語」には古鳴海宿(こなるみしゅく、鳴海より北、天白区野並の南の地域)の遊女が都の高官と親しくした物語が残されており、平安朝末期には当時の古鳴海には旅籠があり繁栄したようです。
この頃には次第に古鳴海より野並を抜けて熱田の宮に向かう内陸部の街道より近道の、鳴海潟(なるみがた)と呼ばれた海岸線を通り南区笠寺の丘陵地を経て熱田の宮に向かう街道が多く使われるようになりました。
この海岸沿いの街道は河川による土砂が海岸に堆積して出来てきましたが、依然として海の引き潮のときに利用できる道であるため、鳴海潟は交通の難所であり、当時の旅人を悩ませました。
そのため平安時代から鎌倉時代にかけての鳴海について詠んだ和歌には風景だけでなく通行の不安が表れています。
いかでわれ 心をだにもやりてしか遠くなるみのうらみがてらに 小野小町
恋せよと鳴海のうらの汐ひがた かたおもひにぞ しをれわびぬる 後鳥羽院
哀れなり 何となるみのはてなれば またあくがれの浦つたふらん 藤原光俊
祈るぞよ 我おもふこと鳴海がた さしひく汐も神のまにまに 阿仏尼
鳴海潟汐の満干の度ごとに 路踏みかふる浦の旅人 宗良親王
鳴海潟夕なみ千鳥立かへり 友呼続の浜になくなり 厳阿上人
鎌倉幕府が開かれ鎌倉街道を通行する旅人が頻繁に往来する以前から、既に多くの旅人が鳴海を通っていましたが、この当時は古鳴海(こなるみ)が緑区の中心であり続けていました。
飛鳥時代から奈良時代にかけての名僧の行基は、民衆への仏教の布教のため諸国を遊説したコースを山城から東方への道として「東海道」(古東海道)と「東山道」の二つの道を日本地図(行基図)に描きました。東海道は、伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河・
遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸を通る道であり、東山道は、近江・美濃・ 飛騨・信濃・上野・下野・陸奥を通る道です。
源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府が正式に成立すると、
京都と鎌倉とを結ぶ最も重要な街道が必要となり、当時既にあった京と東北をつなぐ複数の道をつないで鎌倉街道としました。
鎌倉街道は東山道より一宮・清州・萱津を経て、現代の名古屋市域を西北から東南に通過し、豊明市の二村山から三河の知立市の八ツ橋へ抜けて東海道につながっていました。
鎌倉街道の名古屋市域の道は、萱津・中村・米野村・露橋村・古渡村・大喜村・高田村・
桜村で、緑区内は古鳴海・赤塚・池上・相原・石神堂・八ッ松で、後に古鳴海・ 嫁ヶ茶屋・赤塚・文木・宿地・相原郷・石神堂・八ッ松から二村山へ抜ける道ではなかったかと推定されています。
(この続きは次回、平安時代について)
~~~おまけ~~~
緑区の出べそみたいな(笑)標高34.79mの高台「滝の水公園」の頂上からの遠景を一部ご紹介します。
滝の水公園頂上はこのように石畳になっていて360度のパノラマを楽しむことができます。
名古屋港を東西に横断する伊勢湾岸道の3つの斜張橋「名港トリトン」
名古屋駅前の高層ビル群(ケラー・ウィリアムズ・ナゴヤのオフィスがある大名古屋ビルヂングもこの中にあります)
遥か西には鈴鹿山脈